投稿者
 メール
  題名
  内容 入力補助動画検索<OBJECT>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ teacup.コミュニティ ]

投稿募集! スレッド一覧

スレッド作成 他のスレッドを探す

[PR]  水素水 大阪の求人・転職 新築マンション福岡 英会話学園前駅
teacup. ] [ 無料掲示板 ] [ プレミアム掲示板 ] [ teacup.コミュニティ ] [ ブログ ] [ チャット ]
【From teacup.】この掲示板は投稿が一定期間無いため、各記事中に広告を表示しています。

全86件の内、新着の記事から10件ずつ表示します。 1  2  3  4  5  6  7  8  9  |  《前のページ |  次のページ》 

少年ジャンプ

 投稿者:tomoda  投稿日:2002年 7月 7日(日)07時54分4秒
  黄金期の愛蔵本を、今頃なぜ買うのかというと、やたらと無茶な論理が各所で爆走しているそれを確認して、若いときにこんなん読んでたのか反省するためなのさ。

Jacquesへ>

(元)だと思った私は、ある意味ただしい反応をしたのです。世界の果てまでお花畑!

……気を取り乱して。「傾向と対策」小説なんかは深甚賞をとれやしませんね。最近の群衆、あさましくあるのは典型的ですが。はじめの一行読んだだけでボツ直行です。新人賞ってひとつは文芸誌を買わせるための装置なわけですが、「傾向と対策」を学ばせて、優秀なゴーストライターでも製造するつもりなのでしょう。ゴーストライターに失礼ですな、やっつけ仕事はやっつけ仕事なのです。フランスパンはダリです。文芸誌にポルノのせたの誰です…イカスじゃないか、自殺するなんて。
……ごめんなさい。

整理前整理中整理後という言葉にしては簡単なことなんですが、基本的に突き詰めて考えるのが苦手なのでバラバラなのかなぁって考えたりしますわ。まったく気持ち悪いくらいです。いつも整理方法に疑問を持っているからこうなんだろうか、と言っても私のへなちょこ具合では段階的にこんなんなんでしょう。自分で、この小説はいったい何のジャンルに入るのか、わからなくなってしまいました。
並行して考えていることの一つに、どんな風にこの文字が書いてあるというシンプルな状態に噛みつくか、というのがあって――KENISHIIは(ここは友人が説明した通りに言うと)「環境音楽の抽象的な音をリズムの上(ビート)に乗せることによって聞き易くした」という「展開」を初めてさせたらしく。環境音楽って音のイメージをそのまま作品にさせるでしょう。それがリズムに乗って「展開」することによって、イメージが変化し、その音のイメージの変化そのものが印象を深めるという結果をみせたりしたのですよ。フレーズがまったく違うフレーズへと展開することで、ひとつのフレーズに深みをもたせたと言い換えてもいい。音楽にしても映像にしても言葉にしても「喚起させるイメージ」があるじゃないですか、それは表現なんですが、それの一歩前のレベルで反射的に我々が感知しているところがある。言葉にすれば安易に語感とかと言われがちですが。それをどんな風に膨らますか考えていたのに、この「展開」というのが理解の上でイントロデュース的だなって、、、語感というのは実は結構ダメな意識だから、壊したいのです。いや、ほんと。語感いらん。

うーむ。うー。むむむ。「何か考えてるようで何も考えてない」これ、大事。逆じゃないところがきわめて大事。ただぼくはゴダール的だといってるんじゃない、ゴダールを意識したといってるのでありまして。
 


マテマティカ

 投稿者:Jacques Rakanka  投稿日:2002年 7月 4日(木)23時54分56秒
  「百年にひとりの声」って、キサマは百年の何を知っているというのだ?メディアが言うことは何でも信じるんだな、凡庸さという傲慢にならされきった消費者根性丸出し。あらゆる場所に花束を!

……気を取り直して。「傾向と対策」小説がよく新人賞を獲っていますね。最新の群像、朝日なんか典型的です。はじめの一行を読んだだけでわかってしまう。新人賞ってひとつは文芸誌を買わせるための装置なわけでしょう、「傾向と対策」を学べ、ということですよね。フランスも代表的な文芸誌がとうに千部を切っているそうです。でもロブ=グリエの新作はよかったなあ、もう八十だぜ。

整理以前、整理、整理以後の問題がバラバラのコントラストを為しとるのではないかとお見受けする。ケンイシイの件の「日本語」不明。聴いてないのでフォローもできず。ぼくは「物音」フェチなんだ。

ゴダール?切り刻む?『P-13』?……五六十年代のゴダール、そして初期の源一郎。エセーでも『しまうま語』から『小説教室』まで何度もゴダールの言葉に触れていますな。「切り刻む」ねえ……たしかにゴダールは引用やコラージュを方法論的かつテキトーにやってきたのでしょう。「何か考えてるようで何も考えてない」これ、大事。逆じゃないところがきわめて大事。ただぼくはゴダール的だといってるんじゃない、ゴダールを意識したといってるのでありまして。いずれにせよ『P-13』はありえませんが。
 
お得なプロバイダーとくとくBB

ピタゴラスイッチ

 投稿者:tomoda  投稿日:2002年 7月 4日(木)05時51分16秒
  Jacquesへ>

書いているので、実感として賞の話は身が入って考えられないです――機能不全に陥っている、ダメだなこりゃ――「どうでもいいな、コイツに関係ないし」と原稿に‘おとうさんスイッチ’を落書きしながら。

KENISHIIの最初期の作品を聞くことができて“抽象”は動き出さなければ深くなれないと友人に説得されたみたいで妄想に付き合い疲れた暗い本日。体験だけが新しいのに脳味噌が腐り気味だと考えるレトリックさ、に辟易。もう少し整理できれば…ほんと整理が苦手なんですわ…ぜったいこれが問題なんだ――と考えるその姿のまま、提供したい。
えっと、とりあえず、死んだヤツには花束を。

ゴダールを巡る会話で「切り刻む」ことが大きく見なされていて、私は結局なんか分からなかった。源一郎とここらへんは…『P-13』?

『小説教室』ですね。岩波ですね。はい。
 

賞ぐらい獲れ

 投稿者:Jacques Rakanka  投稿日:2002年 7月 1日(月)07時45分34秒
  って……まさか親に?じゃないよなあ。まあ、とりあえず「参加表明」にはそれがいちばん手っ取り早いんだろうけど、たぶん賞を選ばなければ、また作品に拘らなければすぐにでも獲れるんじゃない?それが問題なんですよね。「それから」のつもりが「それまで」になってしまうおそれもある。そんなあなたに「早稲田文学新人賞」をお勧めしよう。「とりあえず」ほしいならね。

知ってる人に「誰も使ったことのない比喩を」と言っている男がおりました。しかしとことんポエジーとは無縁な彼はむしろ退屈で作為的でくだらない比喩しか「考え出せ」ませんでした。……小説は長い比喩である、とはたしかに言えるでしょう。でも無媒介化してしまうような、物質性を消去し、自堕落な物語のうちに身を収めてしまうような比喩ではない。そんなもの、読書=お文学=時の洗礼を受けた名作を読むこと、という程度の認識の輩に食わせておけばいいんです。自動化した比喩に死を。

人が言うまで源一郎作品をメタ小説だなんて思ったことは一度もなかったんですよ。『ゴーストバスターズ』の書評で誰かが書いていて、なるほどそう思われるのはあの作品が悪いんだよな、と確認しつつ、でもメタフィクション作家はねえだろさすがに書評ならではの暴言じゃないの、と静かに憤ったものでした。だれもゴダールを「メタ映画」だなんて言わないのにね……とウンザリしちまいましたね。いや、一時期の源一郎は確実にゴダールを意識していたはずですから。今でも新作を観ているかはともかくとして。

不安になったり気になったりする前に、ちょっと立ちどまって源一郎の新著「一億三千万人のための小説教室」を読んでみたらどうだろう。たいして時間もかからないしね。できるだけリアルタイムで追いかけること(しかしつねにタイムラグは意識すること)、とりあえず源一郎にかかわる者がてはじめにやらねばならぬこと。
 
お得なプロバイダーとくとくBB

愛媛県の友人

 投稿者:tomoda  投稿日:2002年 7月 1日(月)02時32分3秒
  はこう言うのだ。「『坊ちゃん』って愛媛のヤツらをバカにした小説なのに、当の愛媛県人はありがたがってんだ。どうよ、これ?」

Rakankaさんへ>

んじゃ、残しときますね。この四人組。ぷ。

高橋源一郎の小説に対してどこまで解放していいのか、わからなくなってしまう――メタとかいろいろ踏まえるのかどうか、判断できずに不安になるのです。そういうことを不安に思うのだから、私も源ちゃんの良い読者じゃないでしょう。デバガメの文学趣味者っていうのも耳が痛い。実はその手にのった経歴がある身ですから、パワーズに結局会えず仕舞いだったのは結果的によかったな。
『日本文学盛衰史』以降か、『ギャングたち』が復刻され絶版気味だったいくつかも書店で目にはいるようになりましたね。その流れと、室井との話があってそこら辺を『官能小説家』で織り込んで、最後は失踪…っていうのはへタレぐあいが親切にも分かり易す過ぎるでがしょ? いやね、『官能小説家』は説明だったんじゃないかと思われるのもしょうがない。んでも、前半、面白いんだよホント。
小説家に使命があるような言い方になりましたか?ちゃいますわ。源ちゃんのやり残したことなんて思い付かなかったんですが、源ちゃんの批評になんかでいろいろあったんが気になって、っていう具合ですわ。つまり、とても『重い』から、どうにかなるんじゃないかと思ったんですわ。

…実は、比喩って腐ってんじゃないかと。今、自分なりに打開策を案じてます。

大江健三郎の顔は、出てくると恐怖を感じる。ニュースステーションに出たときは危険だった。営業だろうけど。

とりあえず賞ぐらい取れ。と、言われてます。話はそれからだろ。って。
 
お得なプロバイダーとくとくBB

Botchan、いいじゃない

 投稿者:Jacques Rakanka  投稿日:2002年 6月25日(火)03時13分9秒
  絵が故・石原豪人だともっとよかった。
しかし清水さん、肥ったというかふやけたなあ。うははは。友田さん、これは傑作ページですぞ。絶対に残すべきですぞ!(『優雅で感傷的な日本野球』風)

でまあ、ぼくは何のかんの言って源一郎に非常に執着してしまっているわけです。とある懇意の人は「生きている限り安心して読めない」と言っていました。彼が生き、いまだに書いていることが不思議でならないと。ただしそれは小説に関してだけで、批評(とされているもの)は安心して読める。だが小説となると「なぜここまでギリギリのところで書いているのか」とたちまち不安になり、読むのをやめることもできず、ひたすら早く終わることを願って読みつづけなければならない。つまらないわけでも嫌いなわけでもないが、端的に苦手である、と言うわけです。ぼくは吉本隆明が糸井重里や川崎徹と並べて「言葉が壊れている」と評していることに必ずしも同意できないし、彼はあまり源一郎のいい読者ではないと思うんだけど(筒井康隆と栗本慎一郎みたいなもんだ)、たとえば吉本の評を裏打ちする源一郎の「失語体験」の話があるでしょう。エッセイに書いてあるからといって「あれが事実か否か」に拘っている小粋な人たちを見ると本当にウンザリしてしまうんだ。デバガメの文学趣味者。巨大掲示板にはそういう連中がわんさといるらしい。源一郎は一刻も早く連中に忘れ去られねばならない。また一方で忘れ去られぬように書き散らさねばならない。ぼくは彼のヘタレを支持しよう。
違うラインとは?やり残したこととは?もうやり尽くしたってことか。『惑星P-13の秘密』とか、そういう小説の話ですか?まるで小説家に使命があるような言い方じゃない……。
あと「構成が通っていた」→ヘタレていた、の話をくわしく。

ホサカは「考える」という言葉を巡っている気がします。そのためには厖大な引用も辞さないし、あくまでイメージ化や比喩は拒む。ホサカは比喩が「下手」なのか?「上手い」比喩って結局は「上手いと認められる」比喩なんじゃないのか。A-Bの間にある「-」の透明性にほかならないわけだけど、言葉の物質性を消しちゃうんだよね。共同体にとっては都合がいいわけだけど。

大江、初期はそれなりに読まれてるとは思うけど(『飼育』や『個人的な体験』)、中期の『ピンチランナー調書』や『同時代ゲーム』はもうさっぱりでしょう。どう考えてもこっちのほうが重要なのに。たしかにロシア・フォルマリスムを巡る大江の文章はおそろしくかったるいのだが。むろん大江は殺されたことで生きた作家だし、そここそが強みであったはずなんだけど、ノーベル賞のおかげで何やらわけわからんことになっちゃったんでしょうかね。久本雅美がインタビューしてたり、『徹子の部屋』に出たり……別にね、「題材」に何を使おうと関係ないんだ、大江の振る舞いとテクストはつねに分裂してるわけだから。

文学新人賞や地方文学賞はたしかに数として多い。現代音楽よりもずっと世に出る機会が多いような気がしてしまう。でも果たしてそれはそんなに「いいこと」なのだろうか?いい加減、芥川賞=新人賞という属性を何とかすべきです。新人賞というものはあくまで人に与えられるものですから、いい作品に与えられるとは限らない。あくまで「認証」なんですね。認証は双方向に機能する(有名→受賞という単純図式で動くわけでもない)。それに文藝春秋が主催だから『文學界』編集者が候補を絞ることになるわけで、どうしても派閥意識というか出自差別がそこで働いてしまう。別にこれはいまはじまったことでもないわけです。いちおう芥川は同人誌も対象でしたっけ?でもいまや中上や筒井のように同人誌から拾われてくるということはありえない。だって新人賞があるんだから、わざわざ探さなくたって向こうからやってくるもん。かつて村上龍が喩えとして「ほとんど新人賞に応募してくるくらい救いようがないよ」と言っていたけどね、彼もむろん新人賞出身なんだけど、彼はあくまで「作品」を送ったのであって、その先の「作家」という段階はあまり頭になかったんだと思うんです。デビューしたあとあえて作家になることを引き受け、誰よりも「作家」になってしまった。でも新人賞はその名のとおり「作家」になることを見越した上で自分自身をプレゼンする場所でしかないわけです。よく「傾向と対策」と言われるのはそのためですな。大塚英志なんぞがうだうだと説明するまでもなく、文壇にはイメージの群れがひしめいているのであるからして。あー、だからって地方文学賞がいいだなんてひとっことも申すつもりはありませんけれども。地域振興券みたいなものでしょう、どうせ。
 

顔。

 投稿者:tomoda  投稿日:2002年 6月22日(土)05時24分38秒
  Rakankaさんへ>

並べてみましたこんな風に。

http://www.geocities.co.jp/Bookend/3346/p-ex-1.html

ち、近田春夫…。

春樹、と保坂の、ラインはなななんとなく、わかったんだけどどど、どう見ても大学助教授の清水ryoutenと、音楽界の辛口批評家のラッパー近田と、そうくる、のは、わ、わ、わからんぞえ♪(ナンカ知ラヌガここは滅びゆくラップ風)

「テキスト表層上の話」というのがしやすい。ハルキストは怖いから。でもハルキストが「人間の内面を描くことが文学の役目である」って言うのはどうかなぁって何回か思っていたりするお酒クサイ実話があったが、もういいや忘れて。春樹は強制的に小説に入らせる。まずここで、怪訝なところを覆い隠そうとしている。発言の仕方に非常に気を使って、しっかり遠回しに言おうとしているところで二転三転すればするほど実は話の筋がまったく動かない。恥ずかしながら、これが私にはずっとわからなかったことなんだけれど、春樹の小説はそういう構造上が変化しないんだなぁ。まぁ、新作は読んでないんで。あんまり読む気がしないんだけれど。闘う保坂はただ少し言い方がわかりにくい。もうちょっと分かり易くする、、例えば喩えがもうちょっと上手かったら、、と催促するところだけれど、、、ここでは必要ないんだよなぁと思わせるんだよ。ここら辺が強さかなぁ。

はい、夏目漱石の『Botchan』です。イタリア語でもこれらしい。ちなみにこの表紙、なんか違うぞ。
http://aserve3.procen.net/kodansha-intl/books/bookinfo.asp?No=597
グールドは『草枕』も愛読してたんだってね。ふーん。なんとなく時間軸が似てるなぁ。

中上のエッセイ集が二巻に渡ってでてましたなぁ。分厚い。エッセイは小説よりも熱くはないみたいだけれど、やっぱ濃いみたいだよ。うう、ちょっと欲しい。我々の年代はほんと中上とはリンクが少ないね。上にあげたような感じでハルキ・リュウ・バナナというところに無理に押し込まれてるような感じもする。実感がわかないけど、読んでることは読んでるんだなぁこれら。そういう意味で中上は一回断絶しているんだろうね、読まれなかったという意味において完璧に。私が『枯木灘』とか熊野大学とかを覗いたり読んだりしたのは、わたくしごとで四十三才の知り合いが中上フリークで結構いろいろ聞いたからで、これがないと結構誰も読んでない大江健三郎扱いかなぁ、どっちにも失礼ながら。シッソウ源一郎氏はスカスカでも結構タチが悪いことを『官能小説家』ではやらかしてました、朝日にラブコールってヤツです。彼は自分の文章がいつの間にか批評文だけを要求されていたってことに気が付いたのだろうか?自分がそんな風にしたのに。ま、どっちにしろ書いていることやってることに構成が通っているところがへタレてたかなぁ。もうちょっと違うラインがあったはずなのに、と思っても実は彼の小説でやり残したことがあるというモノを見つけるのができなかったりする私でありました。

『ABC戦争』はwebの師匠のご推薦でもあります。みんな、読んでねぇ〜。よくわかんないけど同時多発だよぉ〜。

ごほん。

私が小説家の方だからか、小説家が自分の小説をどう扱うかわからなくなっているんだと思うんですよ。その「生きる」と「生かされる」の感じから言えば。賞を獲ると言うことが「生かされる」というニュアンスが強くあったりしますし、逆に賞を「生かすため」に有名になった台頭した“作家”(小説じゃないのよコレ)に受賞させるという図式が見えたりしますから、いよいよ持って小説がいったいどんな風に扱われているのか不安なのですわ。ま、この悪因は新聞と雑誌の書評なんだろうけどね。出るとこ出ればちゃんとしているわけだろうし、と今でも私でも思っていますから、そこら辺の「出るとこ出れば」の「出るところ」が今急激に無くなってきていることが問題だと思うんですよ。もうちょっと、力強くゆったりとしたところ、創ってくれないんですかねぇ。

ち、ちびまる子化…うう、そこまでおちぶれちゃもう痛みを一瞬にしてあげたい介錯してあげたいくらいだ。教育的な番組だからと言ってエンディングがハッピーである必要もないんだと思う。現代的であるという強みを活かしたやり方って出来ると思う、思いたい。それにドレミらまだ小学生だから話を落ち着かせなくても全く問題ないんだ、というか、そういう風な切り口をみせた#を良い感じに引き継いで欲しいなぁ。
 

ヒント:顔

 投稿者:Jacques Rakanka  投稿日:2002年 6月16日(日)23時05分0秒
  答え:顔。くだらなくてごめんなさい。でも並べたら笑うよ。
春樹とホサカをつなぐラインなら容易に見えますけど、あくまでテクスト表層上の話であって、春樹にホサカの認識力の強さはないですね。Backstreet Boysを聴いて泣いちゃうようなステキな人に「『アルマゲドン』を嫌いな人はいないだろうけど』とどこ吹く風フェイスでさらりと言われたときはかなりのショックを受けたけど、いまだに「人間の内面を描くことが文学の役目である」と言って憚らない信じがたい人がいるじゃないですか。そういう悪しきイデオロギーを斥けるラディカルな強さをホサカは持っていると思う。春樹はデビュー作から希薄さでそこを乗り越えているように見えて、実はすごくいやらしい表象組織の仕方をしてるんじゃないですかね。

『こゝろ』は巧いバランスのみの小説ですね。『猫』を中学時代下校しながら読んだいと恥ずかしきニセ二之金体験が漱石はじめの者からしたら、『こゝろ』の魔力がいまひとつ理解できなかったりする。推理小説としては『坊ちゃん』の方が絶対面白いしなあ。スティーヴ・エリクソンやグレン・グールドが愛読していたそうですよ。英語タイトル、興味ある。これ以上ないほどシンプルですからね。あ、好意はもちろん持ってますからね。

「十九歳の地図」をご存知「あのとき」はじめて読んで、あまりの面白さに本当におったまげてしまったんだけど、いま興味があるのはやはり晩年のスカスカ路線ですね。生きていればヘタレ源一郎に託すこともなかったんじゃないかなあ、なんて思ったり。読んでいきますか、このへん?もちろん中上健次という作者名はおっぽり出してさ。幸いなことに、我々の年齢はそういう中上を生かす風土からは縁が薄いでしょう。けっこう陥没点のような気がする、過剰な関心と無関心の。

「生きる」と「生かされる」は分けねばならない。またテクストと作家のレベルは分けねばならないが、批評家の機能としての作家抑圧のレベルはさらに分けられねばならない。テクストの生る木があるわけじゃないんだからね。で、島田雅彦の不幸はまず80年代に彼を殺すことのできる批評家がいなかったこと(作家が批評的すぎたのであって、これは高橋源一郎にも言えること。柄谷蓮實らはすでに殺す位置にはいなかった)。で、90年代には作家と批評家がそういう関係を結ぶことが状況としてできなくなっていた。ぼくはここで島田は「生かされる道」を採択したように思えるんです。生かされることによって抜け抜けと「生きる」。もはやこういう方法しか残されてなかったんじゃないのか。でも彼は生かされそこねた。平たく言えば「春樹に負けた」。奇しくも今回の三島賞選評で阿部和重の賞との無縁さを自分と重ね合わせているが……とりあえず『ABC戦争』文庫版が売れますように。お徳用ですし。

パトレイバーに関してはとり・みきの貢献度がかなり高くなっております(あなたの師匠に代わりに苦言を呈しておいてください……「遅いッ!」)。思えば押井の『2』からパトレイバーである必要はなかったわけだし、今回は不自然なほどブランクを空けての復活、ますます必然性が薄いではないですか、もはやアニメである理由もわからないくらい。つまり『どれみ』にはそういう期待はできないってことです。ハナと先代女王様を要にするつもりなのは誰の目にも明らかですし。むしろ『も〜っと』の「♪あとは誰も誘わないね 五人寄ればゴキゲン」という歌詞の姿勢を貫いてほしかったが……やっぱ「ちびまる子」化してるよなあ。
 
ケータイで撮った動画を掲示板に投稿

いやちょっと…どころじゃなくて全然わからんべ

 投稿者:tomoda  投稿日:2002年 6月15日(土)23時16分48秒
  rakankaさんへ>
その「村上春樹、清水良典、保坂和志、ついでに近田春夫」というライン…モノ知らないんだから…やさしくおしえてよ……

結構な理由で定礎あつかいの子規との絡みからか、俳界では漱石の俳句は好意的に扱われてますね。「トリストラム・シャンディー」は未読だなぁ。漱石は親切丁寧なところがあるから、好意は持っても良いと思うなぁ。だから『こころ』は巧いバランスだといえるわけだし。

中上の全仕事を知っているわけではないのですが、源ちゃんの近頃の本をのぞくと、なんとなく関連が臭うところがあるなぁと勝手に思っています。近代文学の最後のその後なのか??…いくつか想像すんだけれど、わからない。島田と阿部、両者とも意図して「生きそこねる」ように振る舞っているんだと思いますね。おそらく両者とも発言の駆け引きが嫌いなんじゃないのかなぁ、共同体は異常にそこら辺を大事にするみたいだから、作品以上に、ここでも作品=作者という拘りがあるんでしょうね。阿部和重が今後どうなるか、私にはまだわからないけれど。

おじゃ魔女にはまだ期待したいと思いたいのですよ。この前、パトレイバーの映画があって、その作品は本編にはまったく出てきていない人物にスポットを当てて最後まで通すという秀作だったらしい。ま、見ていないので詳しくはいえませんが、それほどの勇気ある選択ができるようなら、まだドレミにも起死回生の機会はある、と。ま、無茶だろうけどね。
 
ケータイで撮った動画を掲示板に投稿

『魔界大冒険』の複雑さをあっさり通り抜けてきたわけで

 投稿者:Jacques Rakanka  投稿日:2002年 6月13日(木)03時30分37秒
  村上春樹、清水良典、保坂和志、ついでに近田春夫を並べれば、ほ〜ら……ねえ、ほーら……。

熊本時代の漱石と申しますと、『猫』の前ですか。たしかにぱっとしないなあ。「トリストラム・シャンデー」という重要な評論はあるけど……あとは俳句か。しかしその漱石論はどうなの。暗くなったから何なのよ。いまさらそういうアプローチもないだろうに。

作家を生かす、殺すということがあるでしょう。三島を殺したのが中村光夫で……という批評家の機能の話では必ずしもなくて、たとえば漱石はお札にされたことで半永久的に生きることが決まってしまったようなものだし、中上も何のかんので生かされつづけていまに至る。後藤明生なんかは生かさず殺さずで結果的に制度に保護されてしまった。で、中上なんかは生かされつづけたせいでいま逆に死につつある気がするんです。もはやエアポケットという話でもない。いま頑張らないと、誰にも省みられなくなるんじゃないか?十年以上前、蓮實が三島について「肯定的にも否定的にもいまは語るべきじゃない」と言っていたけど、これは下手に生かすなということだと思う。もちろん「生かす」というのは共同体に属する語法なわけですね(そういう意味では島田雅彦は結局生きそこねちゃった人なんだろうし、阿部和重もそうなりつつある。賞分配制度がどうにかなれば別ですけど)。でも中上はもはやそういう段階ではないのではないのか……。

製作会社云々より、どうしてもやはり監督のレベルで見てしまう。アニメは作品ごとに監督の果たす役割の比重に差がある気がするけど……『あずまんが』の錦織博も『だぁ!』の桜井弘明も有望な人だと思うので。『だぁ!』も『どれみ』も教育の物語だったわけですよね。でもただの非日常in日常パタンではないという意味では『どれみ』の方が志が高いというかより現代的だった。同じ魔女ものの『コメットさん』がひたすら郷愁的なツボ押さえに走り簡単に良作化してしまったのとくらべてもやはり『どれみ』には可能性があったわけです。良作を目指して凡作駄作化するより、いっそ『どれみ』には思いっきり失敗してほしいのだけど。失敗作だって傑作にはなりうるんですから。さすがに今期で終了するとは思うので(もう必然性の捏造も無理でしょう)、少しは……たのみます。
 

以上は、新着順31番目から40番目までの記事です。 1  2  3  4  5  6  7  8  9  |  《前のページ |  次のページ》 
/9 


[PR]