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かなぁり無意識的にテキトウだねぇ
投稿者:
tomoda
投稿日:2002年 6月12日(水)06時19分10秒
Jacques>
スタジアム炎上の上に選手全員が死ぬってのナイス。日本敗戦の折りには五十四人の介錯人を擁する五十四人のサムライサポーターは腹切りを行うんだ。やっぱ死ななきゃダメじゃんと一人勘違い。村上龍と中田英寿という図が無茶苦茶関東の詐欺師クサイってのがサッカー論を取り巻くミソだな。パワーズ本人はあと一年ほどで顎がケツのように割れてきますね、ありゃ絶対。
保坂和志のギャグは「へっ、本人真剣?」と懐疑む時があるな。ま、彼の場合、一種の原理主義っぽい小説の最初期に回帰したりして考えるっていう問題意識の持ち方の安易さを意識的に嫌っているのも良心的かも。
太宰…そうか、マンガじゃ駄目か。難しいなぁ。やっぱ、したたかだなぁ。くそお、どうにかならんのか。
そういえば、「のび太の魔界大冒険」とかいうと「ドラえもん」の世界の(不合理さ?)存在というものがやたら残酷なところが子供ながらすごく心惹かれてたなぁオレ、切なかった。
下降線というのは「視点の位置と気分」ということらしい。書くの視点というか、飄々と人間を眺めた『猫』が分かり易くてそうしたんだと思うね。気分的なものでも『猫』から段々暗くなったとか、ならなかったとか、書いてあった。高度成長期とかに日本にも「国民作家」というのが必要だと考えた熱いヤツらがおったんでしょう。そこで漱石が選ばれて千円札とかになっちまったから、それが漱石の作品自体を取り巻くうざったい足枷手枷になったんだろうね。実際、熊本にいた時期の作品はダルイよなぁ、面白ないし。
意図された罠が不意の偶発を起こすという事象が非常に注目されることのような気がする――例えば。東浩紀に私もエールを送りましょう。これから変化していく中で意識されるものが大切でしょうし。
『だぁ!だぁ!だぁ!』にしろ『あずまんが大王』にしろJ.C.STAFFの手掛けるものがあれだけ“見れるの”は彼らの意識のありかたなんだろうか、、、両者とも原作があることが強みかもしれない。『だぁ!だぁ!だぁ!』のルゥは宇宙人で、『ドレミ』のハナちゃんは魔女。そもそも人間ではないというところからの役割があって(意識的にしろ無意識的にしろ、『寄生獣』の思考するミギーほどでないにしも)、それが『ドレミ』における「おじゃ魔女の物語」に絡むのがあるだろうと期待させながら、禁断の魔法やマジョガエルや魔女界と人間界の断絶さえもさっぱり忘れらて物語は消化されていく。たぶんね、終わりを見据えなければならないと思いますよ。実生の話が進んだのは愛子ぐらいなもので、他の重い話らは一向に消化されていないアプローチさえなくなっていてる始末をどうにかするには終わりを定めるしか。
たしかにちょいテキトウかも
投稿者:
Jacques Rakanka
投稿日:2002年 6月12日(水)02時32分26秒
『シュリ』(ちなみにどってことないショボい映画)よろしくスタジアムが炎上して客と選手が全員死なない限りサッカーに興味を持つことのできないわたしの目の前でさえも最近村上龍の顔がちらついてきて仕方がないのだが、いま本屋で澄ましている赤いジャケツの男=小林よしのり、似てきてないか、なんだか。じきにパワーズのあごひげを顔中に移植するんだ、きっと。カモメ眉を中心に。
ホサカはいわゆる「小説の面白さ」に対して懐疑的ですね。そこは良心的というか、信用できる点です。ベケット、カフカ的な明晰さ(「文学」という相互理解が消尽した果ての、というか)を倫理としている感じ。通常言われるところの「面白さ」というのは相対的な長さを引き受ける面白さにすぎないんであって、そういう才能くらいでどうにかなる程度のことは「小説」に関しては問題になるべきじゃない。新人文学賞制度も手伝っていまや安易な書き手が溢れているわけですが、才能は前提であって、才能で終われるジャンルもあるけど、少なくとも「小説」はそこからはじまるものなんだと思う。しかしホサカ「ギャグ」はときにメッチャたちが悪い……。
太宰は巧く、またその巧さを台無しにしてしまう嫌なヤツでもある。でも中毒者は「巧さ」か「台無し」のどっちかしか見てない気がするんですが……中毒者がまわりにいないのではっきりと実例を出せませんけども。あとマンガでいいんですかね?太宰の場合、なかなか原作に連なっていかないんじゃないか。たとえばしりあがり寿が漫画化しても、結局はしりあがりの手柄(成果)で終わってしまうんじゃないの。ともかく太宰に限っては。だから難しい。
ところで「ウソ・エイトオーオー」とは未来を変えうる道具だったのか?実は違うのではないか。『ドラえもん』には「未来は変ええない」という残酷な論理が見え隠れしていた。その顕著な例が第一話の「未来のツケは必ず支払われる」という話です(つまりジャイ子との不倫可能性というヤツだね)。タイムマシンがある限り未来でさえも過去であると言え、また逆も然りだ。その固定化された未来=過去に条件法的な位相を絶えず挿入していく物語こそが『ドラえもん』のメルヘンであったと言えよう。てな与太はともかく、「ウソ・エイトオーオー」の効力はどこまで及ぶか?ということを考えたいと思うのです。「ドラえもんは帰ってこない」というのび太の「嘘」がなぜかなえられたのか。またなぜその「嘘」がいつまでも有効なのか。
漱石の国民作家性とか、秀実が批判するところの狡さ、当然テクストにあたるときはそういうところは括弧に入れるんであって……股鍋こと渡部直己は『本気で作家になるなら漱石に学べ!』というトンデモない本を著していて、そこでtomoda氏が「なんか目的もなく書いているんじゃないかと思うところ」その部分にこそ作家の腕が揮われる、と書いている。『草枕』でも「筋の外に読むものがあるか」と言う那美さんに語り手が「矢張り女だな」という感想を漏らしています。スターンを翻訳していたくらいだからその認識は当然なんですね。そういう意味ではジョイスやフロベールからはじまっているみたいな感じが漱石にはあるので……そこが頼もしくもあり、卑怯でもあり、ということなんだと思います。ところで「下降線」ってどういう話なんです?
うーん、批評家たちの文脈語りっていまいちピンとこなくて。どうすか。『批評空間』系……まあ、その代表として編集委員の柄谷浅田の両氏について考えてみても、別に順を追ってフォローしたわけでもないし、さして興味もないんです。たぶん(幻想の共有)ではなく(幻想の共有の捏造)とするべきなんですね、それは思想や論理のレベルではなく、そう振舞ってしまった、その点で罪深いんじゃないかと。山形浩生のクラインの壷批判は空振りだったけど、その振舞いを告発するという意味では有効性があった(ありえた)。東浩紀には「時代錯誤」という言葉の最良の意味をこそ生きてほしいと強く思う。
いとも容易く交換可能なわけですね。魔女である必要もなく、MAHO堂メンバーである必要もなく。だから障害はただのハードルとなるわけだし、何となく全員集合することのみを目指すような物語配置が安易に為される。どれみは「やっぱり世界一不幸な美少女だ」とたまに思い出したかのように叫ぶけど、おどろくほどキャラが際立ってこなくなっている。もはや相関的な「位置」があるだけ、役割のみ。いまだ消費され尽くしてない脇キャラを順繰りに使いまわしていくオートマティクな(消化試合的な)展開しか待っていないだろう。ハナが何かもたらしうると思えます?『だぁ!だぁ!だぁ!』はいいんだがなあ……。
なぜならばフーリガンとは
投稿者:
tomoda
投稿日:2002年 6月11日(火)07時49分21秒
自国のやんちゃどものことだったのだよなぁ。六月九日京都三条木屋町では六時間にわたって大勢の青い群衆によって完全に公道は占拠され、空高く投げ放たれるのはポリさんの帽子だよなぁ、ありゃどう見ても。
Jacques>
保坂は明晰さを自負しているところがあって、それが差異を産み出しています。ウィトゲンシュタインにもそこらへんがあるんですか? 実にここら辺がギャグみたいに受け取れもするのだが、神経症的なのは小説家のお約束なのだろうと私は思ってます。保坂の場合、結局、読みづらいけど、そこまでもないところが良心的なのだろうとね。
「パフォーマティヴな段階の日本語化」は、第三者にも解るコミュニケーションのことだと私は考えていたみたいです。このコニュニケーションは、原理から言えばもともとからすべてのジャンルは相関した関係であったのを、認知の上で意図的な意識下に引き寄せるという効果がある――武器をふるう相手が例え己であっても武器が共有されるということが「きっかけ」であってそれが次の段階へ…。ってな具合ですね。日本語化されていると日本語が理解できるその他の参戦者も出現するわけだ。ちなみに、ここら辺、恥知らずにもテキトウです。
その縦横のライン引きは微妙に外れているような気がします。ま、『君が代…』は読んでいないのでわかりませんが。ゴジラはテキトウすぎるほどテキトウだったんで源ちゃん第三期「目も当てられぬほどスカスカ」っていうのがジャストミートしてましたよ。「後世まで残る文学」なんて、オレが生きていないんで責任なし興味なしですわ。んでも、うんこでも面白ければオーケーですよ。
太宰ってホント巧いからさ、よく中毒患者を捏造する――中毒患者って実に巧く中毒症状を捏造するみたいに? だからさ、はやく誰かやってくんないかなぁ太宰治。マンガでもいいんだからさぁ。
時間的転倒かぁ。。。ドラえもんが残してくれた「ウソ・エイトオーオー」は未来の出来事さえも変化させたねぇ。
私は漱石がなんか目的もなく書いているんじゃないかと思うところを読んだりすると疲れてきちゃって、結構未読のヤツもあったりしますよ。一進一退っというか行ったり来たりなんだろうね、そこら辺が。この前立ち読みした漱石の論文は気分的なもので猫から明暗まで下降している図を想像させるものでしたから、私も安易にそんな風に整理したりしてましたわ。あかんねあかんわ。
「知による回収(という幻想の共有)」――その幻想の共有が結構クセモンじゃねぇの、だから。。。という友田の呟き。思想家っていうのはここでは「批評空間」とかにいる人間たちのことを指してましたわ…ごめん、かなり無責任な感覚だなここは。
おじゃ魔女を私はストーリーの中にドレミたちがいなくなったのが原因じゃないかと思います。#までは例えクオリティーが低くともドレミたちはストーリーが共鳴するところで各々振る舞っていた。そう、彼女らのキャラクターに似つかわしくないかもしれないセリフさえはきながら、もね――それが作品として必要だったんだから。第三期からいきなりその繋がりが切れて、スポットを当てられた人物以外は(ひどければスポットを当てられた人物さえも)誰も体を寄せない自分を変化させようとしない。だからもはや彼女ら誰が欠けても何の支障もでないほどの位置にいきなりなってしまった。おそらく彼女らに変化が望まれなくなった必要なくなったのだろうね。そう思うに#の頃の、あの設定されたキャラ自体が変化を起こさざるを得なかったという状況がステキだったわけだ。実際にドレミが「彼氏がいなくて世界一不幸な美少女」という口癖を持つという最初期の重要な設定は#ではまったく姿を消していたし、はづきが他人に自分の意見をいえないという設定も#での後半にはほんと意外に思えるほどになっている。
周星馳(もちろんアイツのアナグラム)
投稿者:
Jacques Rakanka
投稿日:2002年 6月 9日(日)23時12分35秒
いわく、「自分よりブサイクを集めた」。いやあ監督、あんたもなかなかいい顔ですよ。
ホサカ、でもしばしば否定神学を肌の表面スレスレにまで引き寄せてしまうよね。しかしそここそが否定神学ともっとも遠い地点かも知れぬのだ。ウィトゲンシュタインの明晰に近いのかなあ。
コンスタティヴというのはパフォーマティヴとの分割を前提とした言葉でしょう(ゆえにデリダは批判した)。ということは「パフォーマティヴな(倫理的な)オープンソース化」というレベルをあらかじめ設定している、と読めるんですが……まあ、隠喩的なものにこだわっても仕方がないんで、オープンソースはともかく、「パフォーマティヴな段階の日本語化」についての考えをお聞かせください。
源一郎に関しては大きく後れを取りました。その二冊を読まぬうちに『君が代は千代に八千代に』も出てしまった。よう出すなあ。やはり脱天使的ジャンク源一郎路線としては『ゴジラ』→『君が代』の線に『官能小説家が』が縦に交わるのか、なんていらぬ期待をしてしまいます。彼のあらゆる意味での「高の括りかた」にはいまだに疑問をおぼえぬでもないが、まだまだ足らんどこまでも括ってみればいいじゃないか一度くらいは、とも思いはじめている。「後世まで残る文学」なんてクソ喰らえですよ。ねえ?
んで、後世に残ってしまった太宰くん。もちろん再考すべきでしょう、ホサカに二度と「ねえ、りさタン。太宰が好きだなんて人前で言ってはダメだよ?」なんて言わせないためにも。太宰ファンってなぜか太宰作品をすべて読んでるからイヤなんだなあ。「作者」に執着しすぎなんじゃないの。(大方、ファンというものはそういう生き物なんでしょうけど。そろそろ太宰のテクストを作者から引き離そう。高橋源一郎は太宰の反復だあ、反復だあ。我々は公然と「ゼノンはカフカのパ剽窃だ」と叫ばねばならない。こういう「パクりの時間的転倒」にこそぼくは興味がある)
漱石に関しては、単純に『我輩は猫である』や『坊ちゃん』や『坑夫』が『明暗』よりも以前に書かれた、という事実がどれほどの意味を持つかよくわからないんですよ。いわゆる言文一致の「失敗」後に軽やかに現われて(まずはここが重要でしょう)、そのあと通常使われる「進歩」「後退」とはまたちがう意味で行きつ戻りつしていたんじゃないか。最高傑作に『猫』と『坊ちゃん』を挙げる人は多かろうけど、「〜は多かろう」という言い方でしかぼくには言えない感じなんです。もちろん全部は読まずに言ってますよ、漱石。
つまり(繰り返すようだけど)「結局東氏は図式的すぎるんじゃないか」ということです。『構造と力』の図式にも『存在論的〜』の図式にも暴力の痕跡がはっきりとあったんだけど、いまの東的言説にはいまいちそれを感じない。あまりに腑に落ちるのだ。だから「不可知」→「知による回収」という彼の整理も甚だ疑問。もちろん「知による回収(という幻想の共有)」と補填しても同じこと。ところでここでtomoda氏が想定している「思想家」って誰のことか具体的に教えて。
おっとと、最後に修正。前回言っていたのは『も〜っとおじゃ魔女』のことでした。つまり三期、四期目がダメなんだ。だってタイトルからして無理やりですからね。モモコの登場も意図不十全だが、ハナの「生長」はあまりにひどい。そもそも魔法を使いすぎじゃないか?なぜそんなに安易に変身して事件の同時体験性を強調するのだ。あらゆるズレが意識される間もなく補正されていく。障害はもはやただのハードルだ。「萌え」が無時間的な「痕跡」の組織化だとすれば、「立ち」は時間的な任意性の積み重ねでしょう。一種の言語ゲームであるわけですね(最初にウィトゲンシュタインの名を出したばっかりに引きずられてしまった)。だからこそ恣意的にキャラが破壊されたとき、視聴者は「キャラがちがう」と感じる。そういう否定的な形でのみキャラの「立ち」は意識されるんですね。んで、あくまで「ちがう」だけだからキャラの書き換えは行なわれずに、同じ記号の下に異なる「キャラ」の堆積が並列して行なわれていく。何が言いたいか自分でもよくわからなくなってきたから少々飛躍させると、「キャラ」と設定はちがうんだってことなんですよね。長くつづければ受け手との間に一定の「立ち」は共有できるけど、それは事あるごとに「ステーキ、ステーキ」と叫ぶこととかやたら「元アイドルの暗い影」が取ってつけたように母娘をつけまわす、といった程度のことなんですよね。「お約束」ともまたちがう。それを取り違えてはいけない。まあ、データベース的動物になれない人間のつぶやきですけど。
あー断片しかない。申しわけない。
温度差?
投稿者:
tomoda
投稿日:2002年 6月 8日(土)04時42分57秒
Jacquesヱ>
少林サッカーは登場人物の顔がすごく臭うよね、演出もこれでもかぁってマンガ的に分かり易い。絵(=映像=顔)があれだけ雄弁だからこそ、(エンターテイメントな)王道なのかな?
すんません(低頭)。実にぃ不正確さを意図して書き込んでます。情けないことに私などは保坂和志を「ああコイツ勇気あるなぁ」って思ったりするんですよ、ダメですね結構ヘバってる。ちょっと体力回復をはからなければなりません――たぶん多くの情報が整理できずにいる、久々に論文調なレベル(?)で引きこもろう(…まさに呟き)
えっと、理解不足でヘマしてましたら指摘して下さい。私なりに“整理する段階から”説明すると……「コンスタティヴなレベルでのオープンソース化」っていうのは、今回話題に登った東氏の活動(著書)は「(孤立気味だった)批評側(思想側)とその外部との“架け橋”(つまり言われるようなコミニュケーションの土台作り)を意図したもので、その意志の疎通がはかられる為には相互に理解がゆくような(この文脈だと)武器の提供だった」わけで、それって「私には」互いの容貌を公開するすること(つまり理解させ合うこと)だぁってわけで「事実確認的な段階(コンスタティヴなレベル)での日本語化(オープンソース化)」なんじゃないかなぁって、思ったわけなのです――あっ、まとめてたら何か無茶したなって気付いちまったよ。どうしよ、どうしょ。
太宰は「したたか」。そうそれ! 文庫の短編があれだけあったということを知ったときに私の中になんか「あれ、こんなに書けたの不思議ぢゃねぇのか」と感じた、その解答はそれだな。ボードレールにも時々感じるな。なぜか宮沢賢治の詩の中にも時々。漱石は言われるほどにすごいと感動はしないのだけれど、そこらへんどうも自分が悪いような気がする(――漱石は作品ひとつ一つで整理した方がいいんですしょうか、なぜ?)。んで、太宰を再考すべきと強く思いますが、この仕事はRakankaさんする気はないの? ちなみに『ゴヂラ』と『官能小説家』は読了。
四連目のヤツはぼやきみたいに読めますね。ええっと、前の書き込みを整理しようと読み返す中で、思想のブームみたいなものに「世界には不可知なものがある→納得」から「知によって世界を回収しよう→納得」という風に変わった、というのがありまして(よね?)そこら辺の方向修正が思想家たちのなかでどんな風になされていったのかが不思議だったんです。ぜんぜん重要じゃない、意味が薄すぎ、ですね。私が頑固者に考えただけです。
おじゃ魔女は実際私が注目しだしたのが#の時だったことを思いだしても、見るべきクオリティーが突如として吹き上がったのがあの当時だけであったと言い得るでしょう、初めのクールの作品にもいくつか光るものがあったことはあったのですが全体として霞みがちです。ま、ヤダモンみたいなもので見るに耐えられるお話は数えるほどなのでしょうね。
温度差……
投稿者:
Jacques Rakanka
投稿日:2002年 6月 6日(木)03時18分52秒
少林サッカーこそが王道だ。
tomoda氏の言葉にしばしば「不正確さ」を感じてしまうのは、「正確さ」とくらべてより不正確だということではなく、あまりに呟きに似ているからかも知れません。いちおう発言はJacques Rakankaに宛てたものになっています。しかしどの方位を向いているのかまったくわからない言葉がある……。指示語や形容句がどこにかかるか不明である、という話ではなく。もちろんワタクシも決して誉められたレベルではないので、お気づきの点がありましたら……。
まあ、「東浩紀」を主語にした話はこの辺でいいんじゃないでしょうか。彼は論争を望んでいるでしょう、コラボレーションを重視しているのは確かだし、横断的な(象徴界を介さない)コミュニケーションのための土台(武器)を作ろうとしているはずです。香山リカがかつて言いました「浅田彰が言うことを福田和也のように伝えられればいいが、実際は浅田のように言えず福田のようには伝わらない」しかし東氏のパフォーマンスにばかりこだわってみても仕方がないわけだ、彼が論争を「実際に」望んでいようがいまいがたいした問題ではないでしょう。『動物化〜』への反応は大雑把に分けて二つですね。オタク文化外部での外部に留まった理論レベルでの反応とオタク文化内部での内部の規律にこだわった感情レベルの反応。あてが外れた、というのは事実でしょう。
ところで「コンスタティブなレベルでのオープンソース化」とは?
徳田秋聲を読みながら思う……確かに秋聲から見た文学史があってもよい、大杉重男ひとりではやや荷が重そうだが、と。『日本文学盛衰史』だって明に暗に漱石が係わっていたところは感傷的にすぎて耐えられなかった。漱石の後半生の作品に似ているかは判断しかねるが……というより漱石を時期で分けることはちょっと不毛なんじゃないですかね。ちなみに太宰が盲目的かというとやはり彼はしたたかなんだと思う。太宰のテクストがちゃんと読まれない風土というのは、三島がたいそうな「小説家」として認識されている風土ということで、やはりどうにかすべきなんですよ、漱石問題と同じく。
あと「もがき」というのは『存在論的〜』的なもののことを言っています。あれ以降まともな論文がないわけだから……いちおう、そういう話(にしないと収拾がつかない)。
あと四連目、>批判とかが……以降のがよくわかりません。哲学者たちって誰のことです?修正改正とは?批判にどうこたえるか、ってことですか。じゃあ「批判された思想の修正/改正」ということかしらん。
『どれみ#』のころ、直後の時間帯に他局で『コメットさん』をやっていたことも手伝って、作品として深刻な局面を迎えた時期があったが、その時でも佳作を残せる余地はまだあった。しかしいまは安易の一言ではないか。教育もなく、異化もなく、ただのしかもかなり自動化されたハートウォーミング、そして視聴者の記憶に頼ったコンテクスト遊び。はっとさせる演出も影を潜めた気がする。『あずまんが大王』の十分の一も面白くない。このままなし崩し的に終わるんじゃないか?
少林サッカー
投稿者:
tomoda
投稿日:2002年 6月 5日(水)21時39分47秒
広告通りのはずの、予想通りなはずの、お約束ストーリーは唐突に燃え上がるどあっぷな顔に焼き尽くされ、アイロニーも爆走しメタは飛翔しラブが大回転。
Rakanka>
本編完結の際、山田五郎風に「どれみ論」を書きます。(+2goal、勝ち点1)
私は感心します。知性的、というか知識的な仕事の中でコンスタティブなレベルっていうのが成されていると。ということで、東浩紀のこのコンスタティブなレベルでのオープンソース化なのかどうか疑わしくもあるを含む言説から、彼は論争を望んでいるんだろうか?
それって(ポストモダン的な振る舞いが「実存」や「文学」や「主体」といったある種の「重さ」に絡め取られるということって)漱石の陰鬱な『明暗』とかの後半生の作品たちと似てますよね? 感傷的なのって、やっぱり受動的なものなんじゃないかと否定的に近頃思ってます。太宰はその点で盲目的な吐露が全面に出向いててて、力強くあるみたいだが。えっと、東浩紀がパフォーマティヴに“動く”のが、ある種のあがきなんですか? 変化することで生き延びるみたいな思想的なものではなくて?
コンスタティブなレベルが成立する議論じゃないと言及が空転したり、肩すかしを立て続けに起こしたり、しますよね。私は無知ゆえによくやりますが。んで、批判とかが思想の中に織り込まれてゆくことって実際にあるんですよね。あれって、どんな感じで哲学者たちは請け負うのだろう? 修正ですか改正ですか?
アングラとオタク文化は範疇が大分ぶれてますね。ごめんなさい。
えっと、
やっぱ、すげぇな、少林サッカー。
反映のぽっぷ
投稿者:
Jacques Rakanka
投稿日:2002年 5月28日(火)23時14分24秒
この言葉を用いて野衣風に「どれみ論」を書け。(−12点)
「萌え」「動物」「データベース」といった既存の言葉にちょいと手を加えて位置づけなおし、整理して提示する東氏の方法はやはりオープンソース的アプローチだと思う。そもそも“動き”を方法としたそのやり方は、たとえば連載をつづけうるうちに「デリダはなぜ奇妙なテクストを書いたか」から「なぜわたしはその奇妙なテクストに惹かれるのか」に問いがスライドしていった「デリダ試論」において、コンスタティヴなレベルとパフォーマティヴなレベルが微妙に絡まった形で現われていたはずです。思想の志向性においてはデリダと東浩紀の共通点はむしろ少ないくらいなんですから。そういえば以前インタビューで「(90年代を切るキーワードはないと言いつつも)実は“郵便的”をキーワードにしたいんですよね」とうっかり漏らしてましたぞ……。
ポストロック・現代音楽の偉いヤツってのが誰かは知らないけど(ちょっと待て……ポストロック?まさに郵便的じゃないか!)、おそらくそいつが言っているのは方法論レベルのことだと思う。蓮實が言っていることに普遍性はありませんし、持たせるつもりもないでしょう。ちなみに彼の言う類似は、たとえばプルーストとカフカとフロベールがそっくりであるという意味での「類似」であり、平野啓一郎とベルセルクとエヴァンゲリオンがそっくりであるという意味での「類似」ではありません。んで、マルチタスクだけど……これは東浩紀の「アンチノミーとはマルチタスクじゃないか」という言葉を参照してのものであまり深入りするほどのものではないです。ただミステイクをおそれることなく少し引きずられて考えてみると、テレビ(アナログ/デジタルの差異はこの際どうでもいい。「吉本は鈍い」という程度の理解で済ませてもいいし、最終審級が複数化していないという意味と考えてもいい。本人がどれだけ否定しようが吉本には差異がある)はいわば「魔法の箱」でしょう。むろん電波を受信するなりビデオを接続するなりしないとただの箱かも知れないけど、商品としては完結した一個の構造体です。一方、パソコンは魔法の箱どころかほとんど商品としては欠陥品なわけです。然るべきOSを敷き、その上でソフトやアプリケーションを走らせてはじめて何らかの用途を得る。パソコンはテレビや冷蔵庫のような「目的」じゃなくて「方法」なんですよ。これ、何かに似てないか?そう、デリダのコンスタティヴな読みがいつしか実存的な自意識の深みにはまり込んでしまった東浩紀の姿です。またポストモダン的な振る舞いが「実存」や「文学」や「主体」といったある種の「重さ」に絡め取られた例として、80年代〜90年代の柄谷行人や高橋源一郎の名前が頭をよぎる。東氏のもがきはとある「典型」なんじゃないでしょうか。
ところで柄谷行人は90年に「想像力のベース」というエッセイを書いている。彼は村上龍の「限りなく透明に近いブルー」にアメリカ的「動物性」を見出し、村上春樹や田中康夫に代表される日本的スノビズム=日本回帰はすぐに昔語りになるだろう、と言っている。別にここで柄谷-東の関係をどうこうしたいわけでも、浅田彰が東氏や村上隆を揶揄した「J回帰」という言葉を引っ張り出そうとしているわけでもない。ただ彼は第三章で「データベース的動物」という言葉を提出したでしょう。これ、あまりにコジェーヴに引きずられすぎなんじゃないか、と思うんです。データベースの水準における「大きな非物語への欲望」と言い切った瞬間、あれ、それは世界観や設定の新しい言い換えなの?データベースってのは様式ではなくて水準なんだ?そもそも大きな物語が失われたという言い方って何となくモダニズム的じゃない?という感じに有形無形のでたらめな疑問がわいて出てくるように、キーワード風じゃない「動物」がキーワードとして機能しているのを見るとあれれどうしたことじゃ、と立ちどまってしまう。立ちどまることが狙い?しかしそれでいいのか。東氏は柄谷氏の『倫理21』を「なぜいまカントなのかということが不問だ」と批判していたけど、下手すると似たようなことを言われてしまうんじゃないの……。
ちなみにオタク文化とアングラはちがうよね。
ハナの登場とポップの復権と
投稿者:
tomoda
投稿日:2002年 5月28日(火)03時27分2秒
空回りしだしたおんぷとモモコはボケとツッコミという図式から関連ある、と帰納させると理解できるかも? 計らずに長引けば、長引くほど物語は方向を定めるのに苦労するのでしょう。もともと「どれみ」のキャラたちは話を(大概はたった一話分くらいの話を)つくるべくして登場していったっぽいから、再スポットさせるにはそれなりの力業が必要になってくるんでしょう。それに、もはや魔女と人間との架け橋というヤツも幸いなことに「どれみ」たちには日常になっているみたいだし。
Jacquesゑ>
実は、いっかい書き込んだ内容に勘違いがあるんじゃないかとおもいだしたのです。よくあることですが、まあ、文章を書いて理解するという方法を私はよくとるんで、こうなっちゃんですな。師匠には「やっぱり友田は語るのに忙しいんだなあ。でも具体的な努力の方向って明示しないよね」って注意されたので、いくらか深く思案中です。なに、これが「その」選択なのですわ。結局問題は私自身の問題としてしか考えられない近頃ですわ。東氏とは直接は関係はないのです。(×_×;)
ネットに載ってる張競ってひとの書評だと【「動物化」がまぬがれないと言及する→思想の「テロ」だ】というような売り文句を最後に放っていたりしています。他のひとの書評には、【(思想方面から又は哲学方面から)このような(オタク・アングラから時代考察へ切り込むという)アプローチが行われるということもポストモダンのひとつの現れであるのだろう】というのものも。ここら辺の感触が私にはわからなかったのです――思想の啓発なのか促しなのか、つまりきっかけを提供するものだけなのかなぁって>実は消えた書き込みはここらへんをホントこの本は商売人っぽいんじゃないかと一辺倒で、私は結構な勘違いをしてとらえていたようです。
東浩紀の書いたものをゆっくり読んでいくと湧いて来るんですけれど、どうも彼は自分の思索の“動き”を方法として採用しているんじゃないんですか? 例えば、今回のようなキャッチ(?)をまずは提出して今後相関して動いていく“動き”をそのまま提供していくというような。おそらくできるだけリアルタイムで彼はやりたいのかな。それが目的ではなく、方法をそういう風にしたいという感じで。にしても並行進行中の思索は混みいってますな――「二つの異なった問題系、女性の問題(性的差異)と動物の問題(存在論的差異)をめぐるラカン的言説に注目し、…」か。そもそもこの“動物”って謂いがキーワード風じゃないのかな、ちょっと含みすぎな比喩っぽくなりすぎないか?
ポストロック・現代音楽の偉いヤツが(専門ではないのでよくわからないけど)作品を創るのに一番大切なことはなんですかと問われて「コピペだよ」と素直にこたえたらしい。蓮實重彦の言い様にひどく近いのかな。小説関係で身近にいうと「文体」はそもそもが、ということになるか。んで、マルチタスクっていうのが同時多発小説みたいなものなのですか? アナログ1チャンネル・デジタル1チャンネルっていうのの違いがよく分からないのは私の勉強不足だけれど、ちょっと教えてくれません?
アメリカ行って帰ってきたのは純粋にただ旅行してきただけです。買いかぶりッスよ。語学力不足で本業的な奮闘はできなかったのです。語感というか英語での思考というのもやぱり固定的であるのかもしれないと感じたのは確かですが、この先、アメリカに行くか行かないかは判断保留です。まずはもうちょっとだけこの部屋にいて細々とやっておきたいことがありますから。
どれみの質の低下は明白なわけだが
投稿者:
Jacques Rakanka
投稿日:2002年 5月27日(月)06時26分39秒
メモ帳に下書きしてからコピペ、これが最強……かどうかはともかく、
おそろしくて長文書き込みの直接入力は滅多なことではできません。
打ち直しの気が乗らないこと乗らないこと。ノリノリだった自分よいずこ。
まあ、長文はたいていはオフラインでそれなりの時間をかけて作成する場合もままあるのですが。
特に下の我が2レスなんてね……時間をかければその分マシな内容ができるとは限らない。
ああ、勇気を持って書き込もう。ミステイクなんて些細なことさ。ああ。ああ。
以上は、新着順41番目から50番目までの記事です。
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