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うわ。

 投稿者:tomoda  投稿日:2002年 5月25日(土)07時04分28秒
  ミスった。消えちまった。出直します。  


名探偵未来少年ザ・グレート

 投稿者:Jacques Rakanka  投稿日:2002年 5月21日(火)23時11分6秒
  東氏には棚上げになっている問題がいくつもあるように見えるんだけど(時枝文法、「動物」を取り巻くラカンやデリダの問題、『ハムレット』論など)、エッセイや対談では「状況整理→理論以前のアイデアや視点を提出」というパタンがけっこう多いんですよ。『不過視なものの世界』でいうところの“デカい話”というやつね。で、これは一種の「知」のオープンソース化ともいえるんじゃないか。今回も最後に“これ以降の展開は、読者ひとりひとりの手に委ねたい”と書いているでしょう。別に一冊ですべてを実現する必要はないわけで、とりあえず今回はパフォーマンス重視、と。目指されているのは「使える」言葉であって、武器の供給である、それをどう使うかはまた別の話……。

>その、それらの、「選択」がどうしてなのかということなのです
これはどういうことでしょう?“その”がどこにかかるかよくわからない。「なぜ価値あるものにしたいの?」ってことですか。で、それは東浩紀への問いかけなんでしょうか。もしそうならば、えっ、そうなの?って感じです。オタク文化を価値と結びつけるのは岡田斗司男的な論法(戦略)なんじゃないですか。それならそれこそ『ぼくたちの洗脳社会』でも読めば事足りる話であって。東氏は趣味判断はしても価値判断は放棄しているでしょう。「マーケティング肯定論」という批判はその態度から出てきたものだと思う。大塚英志は否定的だからね。「文学」へのすり寄りも仄見えますけど。

>んで、“爛熟した商品社会の後に到来するフェティシズム空間”って資料は何ですか
資料はないに等しいです。その話もまた講演においてアイデア程度に言及されたにすぎないから。とりあえずはベンヤミンを参照して、ということです。最近は「複製技術時代の芸術作品」、それも比較的重要じゃない部分(アウラに関するところ)の話ばかりだし……例外として「精神分析の世紀、情報機械の世紀」というエッセイがあるけど、これを読む限りではけっこう期待させるものがあるんですよね。

オタクという語はほとんど拡散しているから、意図的に攪乱させて使うか俗情になぞらえた形で抽象化させるか……とにかく前提なしに話を通じさるのはなかなか困難かも知れない。そうしないと「オタク第三世代が本当に動物化しているか統計を取るべき」という話につながってしまう(実在する『動物化〜』への批判。とはいえこれに関しては東氏にも責任はあると思うけど)。だからtomodaさんが「言語」「知識層」といっても正直ピンとこない。(オタクが)本を読むことが言語を解する能力につながるという言い方もわからない。ついでに『ガラテイア』を読んでないから(略)。それと「飽きる」の要素はすでに“動物”という言葉に織り込み済みじゃない?だからこそ下部構造の話は抜きにできないし、ここでの“動物”もキーワードの域を出ていない(前述の問題が残っていますから。とりあえず『存在論的』のP121、『不過視』の斎藤環との対話を参照)。

ところで東氏はアメリカには「行かなかった」わけだけど、tomodaさんは実際に行き、そこで飽きることにも飽き、もとの部屋に辿り着いたともいえる……これは“場”に辟易していたということですか。(いわゆる「絶対外国人」にはなれなかったということ?ちょっと「オレ中心」に考えすぎなんじゃないだろうか)
 

どっと混む。

 投稿者:tomoda  投稿日:2002年 5月20日(月)01時36分52秒
  『未来少年コナン』が見たい


Jacques江>

『動物化するポストモダン』だから”現代日本のポストモダン化”の様相を指摘していく中で、オタクのしかも“ギャルゲー(東浩紀の趣味?)”という狭い範囲を中心に据えると言説はどうしてもアクロバティックになってしまうのかな。たぶん東氏はこれで”日本の”ポストモダンを包括しようとは思わなかったんだろうね。しかし、多くの言及があっという間に通りすぎる(縦滑り?)のは結局は悪い方向、つまり“充実”とは逆に作用している。「データベース」「シミュラークル」「大きな非物語」「二層構造」「動物の時代」「萌え要素」「解離」「過視的」「超平面的」などの言葉は素晴らしい、だけど、これがなぜ“リアル”であるのかということを倍ぐらい言及するべきだったはず。これらは一つひとつ機能して連なりを持っているし、立体的な人間像さえ結べるくらいに生々しい現代をもとにしているのだから。文章のリズムを気にしたのかな? それともこのスピードを(実験的に)やっておきたかったのか? どちらにしても彼は水面に波紋を起こすためだけに石を投げたかったんだろうか。

「デパートで綺麗に並べられた商品は手を伸ばせば触ることも店員を呼べば試着することもでき“カタログ化”されていて、それがどれでも“購入できる”ということを宣伝する価格のついた“広告”が大衆に今までなかった“購買意欲”という欲望の植え付けを成功させて、今に続く消費社会が展開し出す。」
というのは、二年前、荒俣宏が十九世紀末パリで台頭したデパート業界を紹介するNHK番組を私が勝手にまとめたmemoなんだけど、ようするにここで荒俣氏が指摘したのは、購買意欲という新しい欲望の概念とそれが産み出していくことになる大衆消費社会を捉えることが(彼のきまりの文句)“有効であると思われる”ということ。整理の仕方としてこの「欲望」を焦点として商品社会の発展段階を辿っていくと(爛熟の先ということの)シニシズム(スノビズム)やフェティシズムという一見は無価値のもの(またはそこまで高い価値はないもの)を価値あるものにするという行為が理解できます。んで、私の思索が堂々巡りしているのは、その、それらの、「選択」がどうしてなのかということなのです。ケースbyケースなので数をまとめるだけなのですが。う〜脳味噌のクロック指数よ上がれよおい。
んで、“爛熟した商品社会の後に到来するフェティシズム空間”って資料は何ですか? 

東氏が「1チャンネル宣言」をしてしまうほどになってしまっていた背景には、前にRakankaさんが言っていた「思想=文芸批評という日本の困難さね」というのが関係深くあるのでしょう。小説は思想だっていうの、まだまだ安易に使われているのが大勢なのだろうね。んで、マンガが次々とドラマ化され、夏目房之介の仕事が評価され、やがては名作映画となってカンヌ獲って、はじめて思想界にも文芸批評だけではない権威として定着した基準が根付くのか。先が長そう。日本人ってほんと会話下手だよなぁ。

えっと、実に簡単な話なんですが普通の人の倍くらいオタクはよく本を読んでいたりします。ただし、私が知り合った知人たちがそんな感じであるだけなので、総数に対してあまりに貧弱な事例数なのは否めません。あまりに雑な言い様だったですわ。ただ、言語を解するという能力として、やはり知識層を対象にすることにならざるをえない。そういう意味で医者や音楽家ではない(*ガラテイア2.2参照)私など矮小であるのでしょう。んで、んなこと言っている自分に飽きたので、オタクたちの狭く深い知識にも飽きたので、言葉言葉と連呼する近頃の小説たちにも飽きたので、まったくやる気をみせぬテレビにも飽きたので、小ジャンル化の一途を辿る雑誌にも飽きたので、いくら働いても給料の上がらないバイトにも飽きたので、国外逃亡を謀ったのですが、外国に行ってもオレはオレだったのでなんか飽きてしまって、この部屋でなにかしようかなぁって。
えっと、ようするに『動物化するポストモダン』には「飽きる」という重要な要素が完璧に抜け落ちていたのをではないかと大声で指摘いたします。あ”ま”ぃ”!
 

どっと混む?

 投稿者:Jacques Rakanka  投稿日:2002年 5月18日(土)04時59分44秒
  煽りとしての機能を最優先としている書名を含めて、パフォーマンスの良さという点では確かに新書で出すことは有効で、実際に受容層は前三冊よりも明らかに拡がっているし、そのスピードも格段に速い。むろんそのために遠ざかった読者、つまりオタク文化をただの後退であり論ずる価値なしと退け、ただアカデミズム方面の仕事を期待しているのみの人もいるけど、それはまた別の話としていいでしょう。ただ出版形態に内容が引きずられざるをえないため、あまりに性急に論理化しすぎているきらいがあるし、多分に啓蒙的でわかりやすいきらいは否めない。この本以前の対談や雑文にはけっこう興味をそそられたし、刺戟を受けたのになあ。何というか、いちいち書いていることがごもっともなんですね。まあ、東浩紀の強みはまず「コンスタントに本を出していくこと」であるべきだと思うし、とりあえず「年一冊」のペースを保ててはいるわけだけど。

でも「データベース」の話は本当に90年代オタク文化(徹底化されたポストモダン)の特徴でありうるのだろうか?たとえば二次創作やオタク系の小説やノベルゲームについての記述にはフロベールやカフカの小説を取り巻く印象との高い親和性をぼくは感じる。“オタク系小説は虚構を写生している”という言い方って「近代小説は引用である」という物言いとどこがちがうのだろう。蓮實重彦の“小説に似ることは小説の条件にほかならず(…)小説家の独創性とは、ありもしない虚構なのである”という無用に迂遠に見えぬこともない言いまわしが、単に“いかにも小説らしい小説といったイメージ”の共有だとか“説話論的な構造の同一性”といった「物語」に属する言説ではありえないように、「データベース」という概念もまた“良いシミュラークルと悪いシミュラークル(世界観=物語を適切に共有しているか否か)を選別する装置”程度の意味で用いて東浩紀が満足してしまうはずもないと思う。もちろん本人が述べているようにこの本の中でキーワード的に配置されている言葉は“リアル”なものではあるだろう。でもその“リアル”な直感を、それがそれなりに貴重で適確なものであることは認めるにせよ、あまりに易々と理論に適応しすぎているのではないだろうか。あと下部構造の話をほとんどしていないことも気になるし。かつて十九世紀末のウィーンと現在の日本との間に“爛熟した商品社会の後に到来するフェティシズム空間”としての平行性を見出していたわけだから……いやいや、もちろん次に出るであろう理論書の方に期待するのが筋なんだろうけど(出るんだよね?)。

それはともかく、確かにこれは「1チャンネル宣言」ですよね。既存の批評言語が機能不全に陥り、象徴界に保証された超越論的なコミュニケーションが不可能になっている現状、二律化したままでやっていてもしょうがないじゃないか、と。『ユリイカ』にエヴァ論を掲載したあと、アニメ論の仕事が全部自分に来ると言ってぼやいていました。実際、死ぬほど粗製濫造されたあのアニメに関する論考=批評のうちでほぼ唯一まともな仕事でしたから。でもあとがつづかない。コンテクストから距離をとり、ジャンル意識を絶えずその内に織り込むような「批評」が出てこない。内部の人間はパフォーマンス性に欠けた内輪話に終始し、外部の人間はジャンル意識に欠けた感想しか言えなかったわけだ。そこで少しでも“場”を整えるためにアカデミズム方面からの評価がある東浩紀が立ち上がった、と。むろん単純にアニメが好きだったということもあろうし(論文を書いていても自意識が滲み出てきてしまうから)、固有の問題意識に抵触するところもあったんでしょう。結果として文芸誌の書評でもこの本は取り上げられているし、巨大掲示板でも文学、哲学、オタク、葉鍵(LEAFKEY)など異なる趣向の板で話題になっているようではあるんですけど。

でまあ、ぼく自身はチャンネルは使いわけていると思うけど、どちらかというとマルチタスクのようなモデルで捉えた方がしっくりとくるのかも。東氏の「1チャンネル宣言」もそういう感じで捉えた方がいいかも知れない。んで、吉本さんはアナログ1チャンネルで、あの迂闊な源一郎評価なんかもそのせいだと思っていますし、だから柄谷さんに「もうちょっとモダンでやればいいのに」なんて言われてしまうんです、きっと。
各各の“場”の中ではみんなそれなりに楽しくやっているんでしょう。でもそれって「懐」が深いのかなあ。その辺の感覚がよくわからないんですが。言葉は用法だからという部分(こう読んで間違いじゃないですよね)はわかります。淫していてもしょうがないよね。
 
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遅くなってごめんなさい

 投稿者:tomoda  投稿日:2002年 5月15日(水)16時26分38秒
  『オーシャンズ11』ですね。どうしても萩尾望都『11人いる!』と無意識にもリンクしてしまう。希望的観測からかなぁ。ぽりぽり(恥)(-。-;)ヘ

Jacquesへ_

高橋源一郎『ぼくがしまうま語〜』収録、谷川俊太郎と対談の最後ら辺で”意味と無意味のあいだで”という小見出しのついた対談があったでしょ。

>それはたぶん、僕らが極度に分裂症気味になっていて、色んなチャンネルを使い分けているからだろうという気がする。例えば吉本隆明さんなら、資本論からマンガまで全部同じチャンネルで見ようとする、全部1チャンネルで押しちゃうだろうと思いますけど、僕らというのは古典は1チャンネルで、少女漫画を読むときは4チャンネルで、みたいに変えちゃうんですね。しかもそのスイッチの変換はみなオートマチックなんです。

んで、東浩紀『動物化するポストモダン』が七十年代から台頭してきた”オタク”たちを分析しその分析する視点から展開的に”今現代の時代光景”を端的に批評した(と、まとめればいいのかな?)。と、いうのは結局は上記の”吉本隆明さん”みたいに「2ちゃんねるじゃないぜ1チャンネルでぜんぶ突っ込んで行きます」宣言じゃないですか。
『動物化する〜』からだと>ハイカルチャーだサブカルチャーだ、学問だオタクだ、大人向けだ子供向けだ、芸術だエンターテイメントだといった区別なしに、自由に分析し、自由に批評できるような時代を作るために本書は書かれている。<――という具合にですね。
批評する立場(この本からすれば東氏本人)からすれば、批評家の活躍する場の拡大(ex.批評対象の大局化なのか?)はそのまま仕事の場の拡大に繋がる=よって、なによりも結果的に”商人”の臭いがプンプンする羽目になるのでしょうね。指摘されたように講談社現代新書だから雑誌に近いノリなのだろうけれど…ユリイカに載ってたコジェーヴやジジェク関連の部分は面白かったのになぁおかしいなぁ惜しいなぁ粗いなぁ。

さて。
うんで、チャンネルは使い分けていますか、Jacquesさん? わたしは見ての通り必死に使い分けようとしています。審級(=上下の関係)を設けることが目的ではなく、使い分けた”場”が箇々でのニュアンスや語意(単語は多くただ一つの意味を持つのではなく相関して意味を選択しますね)を理解しやすくしてくれると思うからです。理解して欲しいという私の目的の為に。それにね、今がゼロからではなく持ち越しで(今まで私たちが文化的な非文化的な生活で体験して知った、今までに産み出され洗練されてきたそれぞれの”場”の)遺産は、無口にも多弁でと言えばいいのか、真剣な口調ならば真剣さの中にある多くの情報が含まれ、お茶らけているのなら茶らけた中にある多くの情報が含まれ、理論的な言説には理論的な中にある多くの情報が含まれていますよね。私は小説書きですから、その語感というだけでは説明が足りない創り出される”場”をどれだけ押し広げられるか、努力の見い出されるところだと思うのです。屁理屈から言えば「チャンネルを変えない全部平等にボーダーレスに扱う」というのも、そういう”場”の設定なのではないでしょうか。実際にこのような何の使い分けもしないという考え方も意識して私は考えたりします、”考え方”の一つとしてです。
私は結構必死なので、”場”を楽しむというオタクたちの(私は意外に一般ピープルもそうしているのではないかと思いますが)『趣向』を楽しむという自覚も、その懐の深さに感服しますよ。よくも悪くも避難されるような”勘違い”は、こう言った”場”の読みとりを誤ったというケースが多いことでしょうしね。
 

辛抱です(希望的観測)

 投稿者:Jacques Rakanka  投稿日:2002年 5月 7日(火)03時54分8秒
  『殺し屋1』は笑う映画だと思いますね。その徹底性において戦慄してしまう。そのときには決定的な一線を踏み破ってしまう(あるいは踏み破っていたことを確認する)のかも知れないが一度笑った人間には笑えないよりはましだとしか思えなかったりする。人を食ったラストクレジット、あくまでチャチなCG処理、双子の松尾スズキという悪趣味きわまりない発想、等々……。
『小林サッカー』は観たい。もうすぐ大阪でサッカー関連の大規模なイヴェントが行なわれるらしいですが(あの青テントが証拠だ)、ぼくは些かの興味もないので、虚構フィクション嘘作り事に素直に没します(きっと劇場も空いててくれることだろう)。
『The Lord of The Rings』(諦念をこめた原題表記)を見逃すことは勿体ないという以外にはありませんが……『イレブン』がもし『オーシャンズ11』のことならば「それはよかった」という言葉以外にはありませんことです。

国外逃亡ですか。わたしも来年か再来年には露国あたりへ高飛びできるように身辺整理中です。『動物化〜』はたぶん数時間(嘘実験によれば『インストール』を読んで友達に電話で田口ランディ似に写っている致命的な写真があるだの作家として耳が悪いだの中沢新一の書評はあまりに恥知らずだの批判しながらも最後に「でも嫌いじゃないから次作には期待」と言い捨ててしまえるくらいの短時間)で読めます。ご無理はなさらないでください。棚上げ問題もぼちぼちと多少強引に片付けちまいましょう。
 
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"Don't stay away too long."ですね

 投稿者:tomoda  投稿日:2002年 5月 6日(月)20時06分19秒
  すんません。

Jacquesへ>

『殺し屋1』は拝見。なぜあんな迷走実況中継セリフが産み出されるのか、、、笑っちゃダメっすか?
次は『少林サッカー』の予定です。『ロード・オブ・ザ・リング』も『イレブン』も見逃す。あ〜ぎゃ。

『存在論的、郵便的』は読みました。
デリダの本もパラパラと、面白いね、あれ。デリダは文才あるわ。

『動物化するポストモダン』は未読なので今週末までには読んでおきます。実は国外逃亡していたのですわ。帰ってきて、溜まった用事の整理をしなくちゃいけないので、すこし多忙です、貧乏です、陰謀です?


棚上げした問題なんだけど、いったいどこからつついていいやら。困ったなぁ。
 
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停滞しているので

 投稿者:Jacques Rakanka  投稿日:2002年 4月22日(月)06時36分55秒
  お久しぶりです。
最近観たのは『殺し屋1』と『地獄の黙示録』と『害虫』です。
最近読んだのは『南回帰線』と『動物化するポストモダン』です。
友田さんは近頃はどうしてますか。わたしは見てのとおり「まずしい」です。提供できる話題なんて何もございません。

ところで『動物化するポストモダン』、もし読まれたのなら感想などお聞きしたいのですが。
正直、ぼくがこの本の最良の読者たる資格を有しているとはあまり思えないので、
(媒体が新書であることを考えても、東浩紀はほとんど商人の役割を自らに課している……はず)
食い足りなさを感じたのはまあしょうがない。
「整理してみよう」とはもはや阿部和重にまで転移しかけていた東浩紀のひとつの口癖だったわけだけど、
もはやその言葉さえも見当たらなくなったのは、しかしまずいのではないか。(整理しすぎだということ)
鎌田哲哉に罵倒されるのも、仕方がないではないか、などとも思ってしまう。
少なくともここずっと彼の文章にはああいう人格批判を許してしまうものがあるんですね。
(一冊目になかったわけではないけど)
批評空間webでの柄谷の罵倒はともかくとして。
……まあ、来月『郵便的不安たち』文庫化ということで(以下略)。
三割、内容を差し替えるそうです。『存在論的、郵便的』はもう読まれたんすよね?

それと、これは呟きですけど、この掲示板で昨年からずっと棚上げになっている話がいくつもあるでしょう。
あのへんはどう始末(展開、破棄)しちまうのでしょう。
何もしないにしても、いくつか放置された問いかけ(とそれ以前のはた迷惑な呟き)は手つかずで放ってかれると
少しさびしい。
 
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むう、「EGO WRAPPIN」に遭遇するとはね

 投稿者:tomoda  投稿日:2002年 3月30日(土)08時27分46秒
  白川通りを御池から北上していく道は私のようなチャリ運用者にとって非常に困難なものさ。延々と坂道が続いて、見通せるほど真っ直ぐな道の癖にやたらと信号機がある。まあ、そこらに座り込んでて「ぐいーん」と我が根城が迎えに来てくれることはないし、やだなやだなと思いながらもいつかは立ち漕ぎをしはじめなければいつまでも家に帰り着けないってもんだ。んでも、毎日毎日十数分もそんなことをしていると、人間、いい加減に「立ち漕ぎ」というものにも飽きるものさ。そうなると、つい見知らぬ脇道へとふらふらと吸い寄せられたりするだろ。ふらふらはなんとなくぶらぶらになって、とうとうぷらぷらになって…うん。
参ったね。
満開の桜並木だ。


ぽん>

「偶然の音楽」までは、通読してますが、ね。それ以降はぜんぜん。
オースターもいまいち盛り上がってないのか?
 

むう、話をすりかえるとはね。

 投稿者:ぽん  投稿日:2002年 3月15日(金)23時13分21秒
  友田>
読んでないよ。そっちは、読んでるの?
 
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